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「戦時中、私が在任していた日本測定器株式会社において、私と共に新兵器の試作、製作に文字通り寝食を忘れて努力した技術者数名を中心に、真面目な実践力に富んでいる約20名の人たちが、終戦により日本測定器が解散すると同時に集まって、東京通信研究所という名称で、通信機器の研究・製作を開始した。これは、技術者たちが技術することに深い喜びを感じ、その社会的使命を自覚して思いきり働ける安定した職場をこしらえるのが第一の目的であった。・・・・」
1946年1月、現在のソニーグループの創業者のひとり、井深大氏は「東京通信工業株式会社設立趣意書」を起草しました。そして同年5月7日、終戦後の荒廃のなか、資本金19万円をもって、井深大氏、盛田昭夫氏らは東京通信工業株式会社を設立しています。創業当時、工場兼事務所はデパートの日本橋白木屋(現在のCOREDO日本橋)の一角を借りていました。しかし、売り場の拡張などで次第に手狭になり、立ち退き余儀なくされます。仕事の場を各地に移したものの、工場などが各地に散らばっていては不都合であり、ようやく手に入れたのが東京の北品川、通称御殿山の70坪の倉庫です。点在していた工場、倉庫、事務所がここに移りました。雨漏りがして、室内にいても傘をささなければならないほどの建物でしたが、ひとつの場所で一緒に働けるという喜びからすれば、そんなことは大した問題ではなかったそうです。そしてそう時を待たず、この地からテープレコーダーやトランジスタラジオが次々と誕生していきます。
1949年には新しい木造の工場が完成し、更に1951年には、隣接していた会社の土地・建物(木造3階建て)を買い取り、事務所兼工場としました。1960年代、これらの建物は取り壊され、立派な本社ビルが建てられています。日本橋白木屋を立ち退いてしばらく、井深大氏と盛田昭夫は、皆が一緒に働ける工場を探し、都内をあてどもなく歩き回ったとか。そのとき彼らが語り合った小さな夢は、エレベーターと水洗トイレのある、自前の工場をもちたいというものでした。その夢は十数年で現実のものとなっています。1958年1月に会社名をソニーへ変更し、同年12月に東京証券取引所に株式上場、ソニーグループの株式時価総額は、今月2日の終値ベースで16.3兆円です。
さて、今年2月15日、投資信託協会が定める、「投資信託等の運用に関する規則」などの一部が改正、施行されました。これにより、公募投資信託に未上場株式を上限15%まで組み入れることが可能となっています。以前から、未上場企業が上場申請前に機関投資家と接点をもつプレヒアリングにおいて、資本政策の一環として上場前から公募投資信託で自社株式を保有してもらいたいという要望がありました。顧客の多様化、投資先の多様化・投資手法の多様化、また、外部環境の変化がすすむなかで、幅広いニーズに応える商品を提供し、未上場の時点から上場後までのすべてフェーズにおいて、企業の伴走者にもなれる運用会社が求められています。
顧客の長期的な資産形成を応援するとともに、全ての人々が恩恵を受けられる社会の実現を目指していかなければなりません。微力ではありますが、株式ではなく不動産を運用している弊社においても、そのことを忘れず、日々の業務に全力で取り組んで参ります。