九州地方に長々と停滞した梅雨前線は線状降水帯を次々に作り出して、九州全域にわたって観測史上最大となる豪雨による災害を引き起こし、大被害をもたらしました。その影響が徐々に西日本から東日本へと北上し、岐阜県や長野県でも局地的に大雨となり、一時特別警報が発令されました。正に異常中の異常なことだと思います。
東京も梅雨のしとしとから、時には、それを通り越したザァーザァーと云った雨も降ります。強い風も吹き、雷も鳴り、梅雨時とは思われないような天候が続いています。しかし、昨日の日曜日は風雨もおさまって、仲夏を過ぎた暑い日差しも時折顔を出す、豪雨被害の皆さまには大へん申し訳ないような穏やかな一日です。そうだ、お寺へ行こう!
今日から新暦のお盆の入りで、お寺ではお施餓鬼会が毎年行われます。
しかし、今年はコロナで集まることは中止となりますが、法要は営まれるとのことでした。
小生は毎年の行事でもあり、お寺は蜜にならない場所と思い、お墓参りに梅雨の晴れ間の昨日のうちに、出掛けてきました。
お寺側も受付はビニールシートが幕のように垂れ、お坊さんもフェイスシールド越しの対応です。
お寺はJR田端駅近くで、芥川龍之介(1892~1927)と共に輝き、消えて行った田端文士村の中にあるのです。文士村には小説家、詩人、芸術家が集まり、龍之介をはじめとして、室生犀星、菊池寛、野口雨情、中野重治、萩原朔太郎、堀辰雄、正岡子規、サトーハチロウ等々、沢山の方々が住んでいて、競いながらこの界隈から作品を次々に生み出して行ったのです。
龍之介が「雨がふるときは足駄で下りるのは大分難渋だ」と書いた坂を小生も下りてみましたら、JR田端駅南口に出ました。
今は舗装されていますが、当時はきっと泥んこ道で、そりゃ難渋したことでしょう。
本日も、小生のブログにアクセス頂き、ありがとうございます。
龍之介と共にあった田端文士村は10年ほどで終わります。
1927年龍之介は「ぼんやりした不安」という言葉を残して自ら命を絶ちました。
その最後をみとった主治医下島勲医師(書家)の楽天堂医院も、坂下300mと離れていない文士村の中にあります。
龍之介の生きた最終までの約10年間即ち、1920年から1930年にかけては、恐慌が相次いで発生した時代でもあります。様々な要因によって引き起こされたそれぞれの恐慌は日本経済や社会に大きな影響を及ぼしました。国民にとりましてはどれも大きな災害でした。
戦後恐慌、震災恐慌、金融恐慌、そして昭和恐慌の順で続きます。
第一次世界大戦中は大戦景気によって日本は好景気に沸きましたが、大戦が終結すると一転不況へと、そして1923年の関東大震災が発生し、政府はモラトリアムを発令し、日銀に特別融資を行わせます。
しかし、決済不能となった震災手形が不況の慢性化を引き起こします。
その結果として大正から昭和へと時代が移った翌年、議会での片岡直温蔵相の失言「本日、東京渡辺銀行が破綻しました」により金融恐慌へと発展し、その打開策の金解禁に失敗した(井上準之助蔵相)直後、日本は、1929年のニューヨークのウォール街の株価暴落に端を発した、世界恐慌に巻き込まれます。
犬養毅内閣が組閣すると、高橋是清蔵相となり、金の輸出を禁止し、金本位を撤廃して、現在の管理通貨制度へ移行させます。この制度の下で積極財政による財政膨張政策即ち、金融を緩和してインフレ政策により円安として、輸出が有利となります。そして、昭和恐慌から一時的に脱出することになるのです。
しかしこの頃、世界恐慌からの脱出は、世界各国とも同じで、イギリスなどは排他的なブロック経済圏を形成し、保護貿易政策をとり出します。
やがて歴史上では、貿易立国日本はやがてブロック経済に阻まれ、あの不幸な太平洋戦争へと突き進むことになります。
昭和恐慌から脱出の為に高橋是清蔵相のとった金融緩和といい、世界的不況により諸外国がとった排他的ブロック経済圏形成による保護貿易政策といい、此度のコロナによる各国がとった金融緩和政策から保護貿易まで何か今と類似しているように思えて仕方ありません。これって正に「ぼんやりした不安」ですよね。
本日のボンドランチ
田端駅通り商店街のレストランで
龍之介さんもこんなの食べたかしら