本日も弊社ホームページをご覧いただきまして誠に有り難うございます。
「春風や 闘志いだきて 丘に立つ」
俳人の高浜虚子が1959年4月8日に亡くなってちょうど60年になりますが、
本日、お子様やお孫様の入学式に出席されるという方もいらっしゃるに違いありません。
さわやかな春風のなか、お子様やお孫様は、虚子の句のように清新な気持ちで式に臨んでいるのでしょうか。
さて、月末からはじまる連休を使って、今年も大勢の人々が様々な観光地へと出かけていきます。
1935年5月6日、岐阜県大垣高等女学校(現岐阜県立大垣北高等学校)の
生徒200人余りが修学旅行先(静岡県伊豆半島堂ヶ島)の吊り橋で
記念撮影をしていると、橋が突然揺れはじめ、70人ほどの生徒を巻き込んで渓谷へと
落下していきました。幸いにして死者はいなかったものの、50人以上が重軽傷を負い、
修学旅行は取り止めになっています。
この事故は連日のように新聞紙面を賑わし、引率の先生の責任追及、強度不足の橋を
架けた地元への非難、原因究明を急ぐ意見など様々な記事が掲載されたとか。
それらの記事に触発され、同年7月、中央公論に随筆「災難雑考」を発表し、
プレートのぶつかり合う日本列島を吊り橋に例え、明日にも起こるかもしれない
大地震に警鐘を鳴らしたのが、冒頭の高浜虚子とも交流のあった
寺田寅彦(物理学者、俳人)です。
責任追及ではなく災難の真因を究明し、同じ原因による事故によって犠牲者を出さないことが
大事であると述べる一方で、真相を明らかにして公表すれば災難はなくなるかというと、
それは机上の空想に過ぎないと論じ、結局は何の結論も出ない、このまとまらない考察は、
楽観的な科学的災害防止可能論に対する一抹の懐疑である、と結びました。
少し長くなりますが、随筆の一部を紹介します。
【こういう災難に会った人を、第三者の立場から見て事後に
とがめ立てするほどやさしいことはないが、それならばとがめる人が
はたして自分でそういう種類の災難に会わないだけの用意が完全に
周到にできているかというと、必ずしもそうではないのである。
早い話が、平生地震の研究に関係している人間の目から見ると、
日本の国土全体が一つのつり橋の上にかかっているようなもので、
しかも、そのつり橋の鋼索があすにも断たれるかもしれないという
かなりな可能性を前に控えているような気がしないわけには行かない。
来年にもあるいはあすにも、宝永四年または安政元年のような大規模な
広区域地震が突発すれば、箱根(実際の事故は箱根ではない)の
つり橋の墜落とは少しばかり桁数のちがった損害を国民国家全体が
背負わされなければならないわけである。つり橋の場合と地震の場合
とはもちろん話がちがう。つり橋はおおぜいでのっからなければ
落ちないであろうし、また断えず補強工事を怠らなければ安全であろうが、
地震のほうは人間の注意不注意には無関係に、起こるものなら起こるであろう。
しかし、「地震の現象」と「地震による災害」とは区別して考えなければならない。
現象のほうは人間の力でどうにもならなくても「災害」のほうは注意次第で
どんなにでも軽減されうる可能性があるのである。そういう見地から見ると
大地震が来たらつぶれるにきまっているような学校や工場の屋根の下に
おおぜいの人の子を集団させている当事者は言わば前述の箱根つり橋墜落事件の
責任者と親類どうしになって来るのである。ちょっと考えるとある地方で
大地震が数年以内に起こるであろうという確率と、あるつり橋にたとえば
五十人乗ったためにそれがその場で落ちるという確率とは桁違いのように
思われるかもしれないが、必ずしもそう簡単には言われないのである。
(中略)大津波が来るとひと息に洗い去られて生命財産ともに泥水の底に
埋められるにきまっている場所でも繁華な市街が発達して何十万人の集団が
利権の争闘に夢中になる。いつ来るかもわからない津波の心配よりも
あすの米びつの心配のほうがより現実的であるからであろう。
生きているうちに一度でも金をもうけて三日でも栄華の夢を見さえ
すれば津波にさらわれても遺憾はないという、そういう人生観をいだいた人たちが
そういう市街を造って集落するのかもしれない。それを止めだてするというのが
いいかどうか、いいとしてもそれが実行可能かどうか、それは、なかなか
容易ならぬむつかしい問題である。事によると、このような人間の動きを
人間の力でとめたりそらしたりするのは天体の運行を勝手にしようとするよりも
いっそう難儀なことであるかもしれないのである。(中略)こういうふうに考えて来ると、
あらゆる災難は一見不可抗的のようであるが実は人為的のもので、
従って科学の力によって人為的にいくらでも軽減しうるものだという考えを
もう一ぺんひっくり返して、結局災難は生じやすいのにそれが人為的であるがために
かえって人間というものを支配する不可抗な方則の支配を受けて不可抗なものであるという、
奇妙な回りくどい結論に到達しなければならないことになるかもしれない。
理屈はぬきにして古今東西を通ずる歴史という歴史がほとんどあらゆる災難の歴史である
という事実から見て、今後少なくも二千年や三千年は昔からあらゆる災難を
根気よく繰り返すものと見てもたいした間違いはないと思われる。
少なくもそれが一つの科学的宿命観でありうるわけである。(中略)日本人を
日本人にしたのは実は学校でも文部省でもなくて、神代から今日まで根気よく続けられて来た
この災難教育であったかもしれない。もしそうだとすれば、科学の力をかりて災難の防止を企て、
このせっかくの教育の効果をいくぶんでも減殺しようとするのは考えものであるかもしれないが、
幸か不幸か今のところまずその心配はなさそうである。いくら科学者が防止法を発見しても、
政府はそのままにそれを採用実行することが決してできないように、また一般民衆は
いっこうそんな事には頓着しないように、ちゃんと世の中ができているらしく見えるからである。】
弊社ではBCP(事業継続計画)を策定しています。自然災害、人的
災害、
テロ行為などが発生した場合でも業務を堅実かつ安定的に継続する体制を整え、
ステークホルダーの皆様に及び得るリスクの最小化に努めて参ります。